登場人物紹介
小田原 未来(おだわら みき):
本編の主人公。パティシエを目指す女の子。
運動は苦手だが、ぽやんとしている訳ではなく、元気で快活。大食いで特に甘いものが大好き。よく名前をミライだと間違われる。夏が嫌い。
白石 陽(しらいし よう):
未来の先輩でスウィーツ同好会の部長。生徒会長でもある。上品だが活動的で興味が沸いたらなんでもやってみようとする。
何でもこなすスーパーマンで、やっかみから奇人との呼び声も高い。最近の興味は洋菓子作りで、今年の初めに突然スウィーツ同好会を立ち上げた。
空気は敏感に読むが、他人の目は気にならないようで、それよりも自分の興味が最優先。
白石 小夜(しらいし さよ):
陽の従妹。陽と中学校までは同じだが、両親のたっての希望で遠くのお嬢様女子高に通っている。優雅でおしとやか。
あたし、小田原未来。未来って書くけど、ミライじゃなくて、ミキ。至って普通の私立高校、豊一学園の一年生。
入学して10ヶ月近く何かに熱中する訳でもなく、かと言って何か始めようと動き出す事もせず、それでいて無意味に焦っていたあたしは、渡りに船とばかりに出来たばかりのスウィーツ同好会へ入部を希望し、家庭科教室の扉を叩いていた。
スウィーツ同好会は、先週、この学園の生徒会長である白石陽さんが突然立ち上げた同好会で、なんでも洋菓子の味を追求するクラブだという。今日、あたしは入部面接を受けるのだ。
正直・・・・軽い気持ちで入部希望を出してみたものの・・・・今から考えると本当に勢いだけでやっちゃったなぁ。
今まであたしはせいぜいクッキーを焼いたくらい。それも、焦げるわ生焼けだわで結局一度もうまく焼けなかった。しまいにはお母さんに、どうせ食べられる物を焼けないし、オーブンが汚れるからやめなさい、とまで言われてしまった。うう、レシピ通りにやったと思うんだけどなぁ。
でも、焼けるように、なりたい。今はまだ、何もできないけど、パティシエになれたら、どんなに素敵だろう。幼い頃、迷子になって泣いていたあたしを、お店の中に入れてくれて、目の前で可愛いお菓子を焼いてくれた、パティシエのおじさん。美味しかった。本当に美味しかった。もう、どこのお店の、どんなおじさんだったかも、思い出せない。けど、あたしも、あんな風になりたい。勢いだけでやっちゃったかも知れないけど、その気持ちに嘘はないから。
・・・・よし、行くぞ。コンコン。
「どうぞ。」
ガラガラ。あ、やっぱりダメ・・・・かも。
「し、し、失礼します。」
「よく来たね。さ、座って。」
うわぁ、生徒会長だぁ。本物だぁ。顔綺麗・・・・。落ち着いてるし。全校女子生徒の憧れと全校男子生徒のやっかみを受けるのも当然だよね。学年が一つしか違わないのに、生徒会長は本当に大人の雰囲気がする。って、あたし、今そんな場合じゃないでしょ。
「は、はい、失礼します。」
「そんなに緊張しないで。面接と言ったって、尋問する訳じゃあるまいし、普通にお茶でもするつもりでお話しようよ。」
「は、はい。」
「さっそくだけど、スウィーツ同好会になぜ入ろうと思ったの?」
翌週、入部申請許可の通知書を手に、あたしは再び家庭科教室の扉を叩いていた。コンコン。
「どうぞ。」
・・・・何人くらい居るんだろうか。先輩ばっかりかな。生徒会長さんは、一年よりもやはり二年や三年の人に人気があるから。同じクラスの子は居るかしら。あたしみたいな素人が入って、みんなの足を引っ張らないかな。ああ、どうしよう。緊張してきたよぅ。
「・・・・どうぞ?」
あわわ。あわあわ。どうしよう、どうしよう。やっぱりあたしなんか無理なんじゃないかな。でもでも。
「?」
ガラガラ。突然扉が開き、あたしはびっくりして飛び上がった。
「なんだ、小田原さん。どうしたんだい?」
「ああああのあの、みみみみなさんとその、なか仲良くやっていきたいと思いましてそのその。」
「くすくす。何をそんなに慌ててるんだい? 僕しか居ないよ。さ、入って。」
「は、はい。」
「さ、これで全員集まったね。」
「え? あたし・・・・だけ?」
「うん、そう。ようこそ、スウィーツ同好会へ。」
これが、あたしと部長の、出会い。そして、スウィーツ同好会の、始まりだった。
それから半年、あたしは、部長の指導のもと何とかクッキーの面目を保てるくらいのものを焼けるようになっていた。
夏はバターが速く溶けてくれるのでありがたいけど、あたしも溶けそうだ。・・・・夏は、嫌い。あたし泳げないし。
「ね~、ぶちょお~、クーラー買ってくださいよ~。」
「そんなもの買う金ないだろ。」
「部費でおりないの~?」
「同好会に部費はない。」
「同好会なのは部長がことごとく入部拒否したからでしょ~。」
時をさかのぼる事半年前、今年の一月。突然、時の生徒会長がスウィーツ同好会なるものを立ち上げるという事で、憧れの生徒会長とお茶ができるという触れ込みで女子生徒、それに、その女子生徒を狙う男子生徒でこの家庭科教室はごった返した。その時、パティシエを目指すあたしもスウィーツ同好会に興味をひかれてその門戸を叩いたのだ。ところが、生徒会長、今のスウィーツ同好会部長であるこの人は殺到した入部希望者をあたし以外ことごとく入部拒否。四月にも歓迎の挨拶を聞いた新入生で似たような騒動が起こり、結局、部員は部長とあたしの二人だけ。部活動の認定基準である、部員数5名以上そのうち最高学年の生徒が1人以上である事、を満たさず、今の今も同好会のまま。本当は同好会は部室として教室を割り振る事はできないんだけど、一般教室ではお菓子作りが出来ないという理由で、ここ家庭科教室を勝手に占拠している。さすがにお菓子の材料は全て自腹。おかげでこっちのお財布はいつもぴーぴーだ。全く、何を考えているのやら。
「部長は生徒会長なんだからさ~。その辺の生徒会費をちょちょーっと、ね、ちょちょ~っと。」
「バカか君は。もし、僕の他の知り合いが自分のために僕に生徒会費を無心して、その金でクーラーを買ったらどう思う?」
「そんなの~火あぶりの刑に決まってるじゃないですか~。」
「だったら君も火あぶりの刑だな。ほらほら、火あぶりの刑にされてるクッキーがもう焼きあがるよ。オーブンからクッキーを出して出して。」
「はぁ~い。うええ。あづいよぅ~。」
「パティシエって熱いものを多く取り扱うからね。夏が苦手だと結構つらいよ。」
「ふぇぇん。道のりは長い~。」
「どれどれ・・・・うん。上手に焼けているね。味も舌触りも申し分ない。合格点だ。」
「ありがたんす。」
「もうちょっとありがたがってくれよ。」
「ごほーびはー?」
「いや・・・・君が君のために練習しているんでしょう。なぜ僕がご褒美をあげないといけないの。」
「ごほーびー! 暑い分だけ何か貰わないとダメなんですよぅ。」
机に突っ伏して溶けかけているあたしの頭を、ふいに部長が撫でてきた。なでなでなでなで。
「・・・・なんですか?」
「ご褒美。」
なでなでは、それはそれで、嬉しい。けど。
「や~余計に暑い~! もう良いあたしには冷蔵庫君しか居ないの。冷蔵庫く~ん。」
冷蔵庫を開ける。ひんやり冷たい空気が流れ出て、あたしの体を包み込む。ああ、幸せ・・・・と思ったのも束の間、すぐ部長に取り押さえられて部長は静かに冷蔵庫君を閉じた。
「こら、冷蔵庫の中があったまっちゃうだろ。」
「うううううう、部長のバカぁ~。」
「・・・・しょうがないなぁ。うちにおいでよ。クーラーきかせてあげるから。」
「行く~!」
と飛び出すあたし。
「その前に教室を片付けてから!」
クーラーにつられて部長の部屋に押しかける。部長からは、何も無い部屋だけど、と前置きをされて。
「なんか・・・・その・・・・本当に何も無いですね。」
机、それも学習机じゃなくてちゃぶ台と言った方が良い小さな机。それに電気スタンドが一台乗っている。逆サイドに布団と、たたまれた服や教科書ノートが無造作に入っているダンボールが合計三箱。押入れすらない。
「はぁはぁ。え、えっちな本はどこに隠しているんですか?」
「・・・・いや、持ってないよ。何だよ「はぁはぁ」って。」
「それでどうやって毎夜うずく体をおさめているんですか!?」
「今の所は抑えないといけないような性的欲求は持っていない。」
「やけに冷静ですね。」
「興味ないからね。」
「今まで、本当に、えっと、その、一人でした事って無いんですか?」
「あるよ。」
「・・・・とんでもない事をさらっと言いますね。」
「とんでもない事を君が聞くからだろ。それに、これだけ生きてきたんだから当然あるよ。別に嘘をつくような事でもない。君だってあるでしょ?」
「何それ!? セクハラ!? セクハラですね!?」
うううう、部長を慌てさせようとしたのに、かえってこっちが窮地に立たされちゃったみたい。
「何だよそれ。まぁ良いや、せっかく君がさっき焼いたクッキーもあるし、お茶にしようか。部屋は充分涼しいんだし、暖かい紅茶で良いね?」
「せっかく部長手ずからなんだし、冷たい紅茶が良いで~す。お砂糖入れてから冷ましてくださ~い。氷も5つ入れてくださいね。」
「なにげにずうずうしいね、君。」
「今日はご褒美デーなんだも~ん。クッキー上手に焼いたんだから、あたしはなんでも甘えて良い日なんですよね?」
「初耳だな、それは。びっくりだよ。ま、良いや、お姫様のたっての希望だし、冷たい紅茶にしてあげる。」
「やった~! わ~い!」
「ああ、クッキー一枚貰うよ。」
そう言いながら、部長はあたしが焼いたクッキーを一枚つかんで部屋を出て行こうとした。
「やだー部長ったらつまみ食い~? お行儀悪~い。」
「ん? ふふふ、まあそんなとこ。」
「そんなに慌てなくてもたくさん焼いたんだから紅茶入れた後でゆっくり楽しんだら良いじゃないですか。」
「ふふ、まぁ良いじゃない。」
部長がいれる紅茶は本当に美味しい。あたしが焼いたクッキーとよく合ってる。こんなに紅茶や洋菓子が好きなのに、どうしてスウィーツ同好会を大きくしようとしないのかしら。
「ねぇ、部長、さっきの話ですけど、なんであたし以外に誰も入れないんですか? いつまで経っても同好会のままじゃないですか。」
「理由も無く入れなかった訳じゃないよ。全員面接したんだけど、君以外にスウィーツそのものを強く想っている人が居なかっただけ。」
「ふぅん・・・・って、ええええ!? 100人以上居たじゃないですか! あれを全員ですか?」
「そうだね、さすがに希望者が多いからってだけで何の理由もなく断る訳にもいかないし。」
確かに、あたしも入部面接を行った。部活動なんて、普通希望すれば入れるものだと思っていたのに。
「・・・・うちの学園は、生徒全員が部活動に参加するという方針だけどね。僕はそれが良い事だとは思わない。生徒会も含めて、強制じゃないからこそ、やりたくないというか、本気でやるつもりが無いのであれば他に何かやりたい事を見つける方がよほど良いと、そう思う。青春の形は一つだけじゃないしね。」
そうだった。あたしも、入学したばかりの頃、先生からのプレッシャーに負けて適当に読書部に入ったけど、結局すぐ行かなくなって、それで先生方からあまり良い顔をされてなかった。・・・・スウィーツ同好会に入部した時は、それよりもはるかに嫌な顔をされた事は、部長には黙っておこう。
「そうですね。ん~でも、あれ? 部長、確か入学式の時はぜひ部活動に参加して下さいって新入生に言ってたじゃないですか。」
「あ、ん、そうだね。・・・・いや、そんな事言ったかな。覚えてないや。」
? 何か部長の態度が変だけど・・・・突っ込んでみるか? いや、どうでも良い事だし、やめておこう。
「あ、そうだ。そんな事より。文化祭。あれに喫茶店を出してみようと思うんだけど、どうかな。」
「あ、良いですねぇ。」
「同好会としての参加なので規則で大きく儲けを出す事はできないんだけどね、原価分の回収は許されてる。」
「良いですねぇ。」
「僕達は二人だけだし、あまり大きな事はできないけど、クッキーと紅茶があれば憩いの場として、椅子だけを並べた休憩所よりかはマシかなと思ってね。」
「そうですねぇ。」
「出来ればお客様にも喜んでもらいたいね。」
「そうですねぇ。」
「それで、そこで出すクッキーは全部君に焼いてもらおうと思う。」
「そうですねぇ。ってええ!? あたしが!? 全部!?」
「そう。それで、こんなクッキーを考えてるんだけどね。」
そう言って、部長はあたしに材料とレシピが書かれた紙を見せた。
「ええ!? 部長。これって・・・・。」
「面白そうだろ?」
部長は不敵に笑う。部長は、意外といたずらっ子だ。普段の立ち振る舞いからはとても信じられない。ひょっとして、これが本当の部長で、普段は物凄く無理をしているのかしら? なんて、そんな訳ないよね。
文化祭まで、残すところあとわずか。あたしは毎日一生懸命クッキーを焼いていた。うまくいかない・・・・どうしよう・・・・。やっぱりこんなの無理なんじゃ・・・・。いいえ、ダメ。絶対に成功させてみせる。そうよ、最初に比べたら少しはまともに焼けてるじゃない。もう少しよ。もう少しで。
と、そこに部長からのまたまた突然の提案。クッキーの材料を少し変えたいというのだ。
「ここに来てそれは少し厳しいんじゃないでしょうか。」
「いや、今の君になら充分できると思ってる。そうだな、確かに厳しい事は厳しいんだけど、上手に出来たら何かご褒美をあげるから頑張って欲しい。それでもって言うのなら、やっぱり今まで通りで行こう。」
「・・・・いえ、大丈夫です。分かりました。それで行きましょう。」
部長は気まぐれだけど、いい加減な人じゃない。この人がそうしたいっていうのなら、何か理由があるはず。あたしは、それを安心して信用できる。部長を信じて、頑張れる。
「ご褒美は、なでなでで良いかい?」
「やですよぅ。もっと良いもの、下さい。」
「ははは、何か考えておくよ。僕は、君を信用している。きっと、上手に焼き上げてくれるとね。」
「頑張るのは得意ですから。それに、あたしも部長の事、信用してます。」
頑張るのは得意なんて、嘘。でも、あたしは今、自分でも信じられないほど気合が乗ってる。行ける。腕は少し痛いし、疲れも大分たまっている。でも、少しずつ、本当に少しずつ、あたしは部長のレシピを掌握しつつある。前進してる。次は、きっと上手に焼いてみせる。楽しい。楽しい。
そして迎えた文化祭本番。少し、肌寒い。今日になって急に冷え込んだかな。
とにかく準備しなきゃ。それにしても・・・・よくまぁこんなにティーセットを手配できたもんね。その数なんと144セット。いちぐろす? って言ってたっけ。なんだろう。リップグロス・・・・とは違うわよねぇ。うう、水がちべたいよう。昨日までは暖かかったのにな。
結果として喫茶店は大盛況。あたしが焼いたクッキーもこれ以上ないくらい大好評で、これで部長もあたしの事を少しは見直してくれるかな? えへへ、ご褒美もすっごいのねだっちゃお。何が良いかなぁ。
もうそろそろ今日は閉店も近い。お客様もちらほらになった。
今、部長は休憩中だけど、どこに行っちゃったんだろう。あたしと交代で取る休憩は10分くらいだし、そんな遠くに行くとは思えないんだけど。あれ? 部長ったら、お客様用のテーブルについて誰かとお話してる。
「部長! こんな所で何をやってるんですか!?」
「ん? ああ、小田原さん。何って、お客様からお茶のお誘いを受けてお断りするなんて無粋な真似が出来る訳ないだろう?」
「あら、ごきげんよう。可愛らしい人ね。陽の良い人?」
お客様・・・・綺麗な人・・・・それに、今、部長の事を「陽」って・・・・。ずいぶん親しそうだけど。
「ただの後輩だよ。二年生の小田原ミライさん。」
「小田原ミキです!」
「私は白石小夜よ。陽とは、従兄妹で、そうね、一応幼馴染って事になるのかしら。」
「ん・・・・まぁ、そんな事より、小田原さんはパティシエールを夢見て頑張ってるんだ。今日のクッキーも全て小田原さんが焼き上げたものなんだよ。」
「あらそうなの。本当に甘くてふわりと口の中で溶けるのね。美味しいわよ。」
「あ、ありがとうございます! 紅茶も一杯一杯出してるんですよ。どうですか?」
「ええ、このお紅茶も美味しいわ。ねぇ、陽。」
今回のクッキーも紅茶も、我ながら会心の出来。それに、人に褒められるとこんなにも嬉しい。ああ、心が満たされていく。こんな充足感を味わうために、あたしはパティシエになりたいんだ。あたしの、時間が、やっと動き始めたような気分になる。
「・・・・? 陽?」
「・・・・下品な味。」
場が一転。時が止まる。・・・・え? 部長、今、何て言った?
「よ、陽!?」
「小夜、ごめん。もう僕も休憩終わりだから。でもゆっくりしていって・・・・いや、後でもう一度クッキーと紅茶をご馳走するから、少し待っててもらっても良いかな?」
「え、ええ・・・・良いわよ。」
「ごめんね、小夜。・・・・小田原さん、ちょっと来てもらえる?」
突然の出来事に茫然自失となっているあたしを、部長は裏の厨房に引っ張っていった。
「どういう事ですか!?」
クッキー? それとも紅茶? 下品って、下品な味ってどういう事? 確かにあたしはそそっかしくて、おっちょこちょいで、何度も失敗はしたけれど、今日は完璧に仕上げたはず。そういう自信が、ある。
あたしは顔を真っ赤にして部長をにらみ付ける。部長はそれを意に介した様子も無く、そっぽを向いたまま興味無さそうにこちらを一瞥して言った。
「今日、小夜に・・・・いや、お客様に対してお出しした紅茶を今からワンセット作ってもらおうか。」
「・・・・はい。分かりました。」
納得できないけど、今は従うしかない。それで、納得のいく答えが無ければ・・・・いくら部長でも、許せない!
茶葉はダージリン。そこにシッキムを少しブレンドする。どちらもダストの状態。ポットとカップを暖めておくなんて当たり前。沸かしていたお湯を火から上げ、湯気が薄くなったところでポットに注ぐ。蒸らしはきっかり2分。朝から何度も行っている手順。ベストの手際で出来た。ねぇ、部長。文句のつけようがある?
「出来ました。」
「0点だね。」
あたしの作業を黙って見ていた部長が冷たく言い放つ。
「っ! なんでですか!? 何が悪いって言うんです! 完璧にレシピ通りでしょう!? あたしは何を間違ったんですか!」
思わず声を荒げてしまう。気がつけば涙が頬を伝っていた。悔しい。悔しい。何が悪いって言うの!
「大声を出してはいけないよ。まだ表にはお客様が居る。・・・・そうだな、では聞くけど、君は、ポットとカップを暖めた。それはなぜだい?」
「当たり前でしょう! 暖めておくのが常識です!」
「答えになっていない。僕は、何の目的で暖めたのかと聞いているんだ。」
「え・・・・?」
「暖めておくのは、湯を注ぐ時に温度を下げないようにするためで、そのくらいは当然君も分かっているはず。では、なぜ温度を下げないようにするんだい?」
暖める・・・・目的。温度を下げないため。でもそれはなぜ? 部長の言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
「・・・・ん~、君も今のままでは話も出来ないだろう。論より証拠だ。僕が紅茶を今からいれるからよく見ておくように。味の判定は小夜にしてもらう。」
そう言うと、部長は紅茶をいれ始めた。ポット二つとカップを暖め、まだ湯気がもうもうと立ったお湯を1つ目のポットの端から勢いよく注ぎ、1分と置かずに茶葉を漉して捨ててしまった。2つ目のポットには漉された紅茶が入っている。2つのポットをこんな風に使うなんて。レシピも完全に無視、むちゃくちゃだ。
「部長! そんないれ方無いでしょう!?」
「論より証拠と言っただろう。良いからクッキーを適当に10枚ほど持ってついてきて。」
「見たところ、さっきとあまり違いは無いようだけど・・・・ちょっとお紅茶の色が薄いかしら。でも、それはさっきと比べてであって、これだけを見ると特に薄いという訳ではないわね。」
「まず紅茶だけ一口飲んでみて。」
「んー。やっぱりちょっと薄いのかしら? あら、でもきちんと紅茶の味はするわ。そうね、最初は薄いように感じたけど、味自体はさっきのと同じくらいきちんとあるわよ。」
「クッキーも召し上がれ。」
「ええ。・・・・。あ! ・・・・。」
「・・・・どう・・・・ですか?」
「小田原さん・・・・でしたっけ。ごめんなさい・・・・その、あなたのいれてくれたお茶は・・・・その、これと比べると、クッキーの味を少し邪魔するというか・・・・。」
「え・・・・?」
あたしは、小夜さんの感想に驚きの呟きをあげてしまったが、本当は驚いていない。いや、正確には、感想には驚かなかった。驚いたのは・・・・このめちゃくちゃないれ方の紅茶は、間違いなくあたしがいれたものよりも美味しいという事。そして、あたしのいれた紅茶は、確実にこのクッキーの後味を損ねているという事。
確かに、部長がいれた紅茶は、最初はお湯かと思うくらい味が無くって、でも喉を通った後は口の中にしっかりと紅茶の味が広がっていて・・・・全てが自然で、何の邪魔もしないし何にも邪魔されない。
「その通り。さすが小夜だ。小田原さん、君がいれた紅茶は、一言で言うと渋すぎるんだ。イギリス人がこれをミルクティーにして、甘みの無いスコーンなんかと一緒に食べるならこれで良い。だけど、ストレートでしかもこのクッキーとだと、どちらの味も台無しになってしまう。」
部長は厨房での冷たい口調ではなく、優しくあたしを諭すようにさっきと同じ事を聞いてきた。
「いいかい? 小田原さん、なぜ、ポットを暖めるの? なぜ、温度を保たなくてはいけないの?」
「それは・・・・お湯が冷めて、茶葉の開きが悪くなるからです。」
「そうだね。それでは、なぜポットの端の方に向けてお湯を注ぐの? なぜ1分でも3分でもなく2分蒸らしておくの?」
矢継ぎ早に質問され、あたしは言葉を失う。そうやって紅茶はいれるものだと、理由も考えず「覚えた」から。
「・・・・君は、なぜパティシエールになりたいの? 教科書を、レシピを一生懸命なぞるためではないだろう?」
口調は穏やかなまま。それなのに切れ味はするどく、痛いほどに突き刺さる。そう言えば、昨日焼いたクッキーも部長の指示で一般的なレシピとは材料の分量が違っていた。洋菓子は、材料数グラムの誤差でも味が変わると言われているのに。思えば、きっとそれもレシピ以外の何かを部長が判断して決めた事なんだろう。確かに・・・・確かにクッキーは大好評だった。あたしはそれが自分の手柄だと、誰よりも上手に焼けたと。勘違いして。
「今日は昨日までと比べて少し肌寒い。いれはじめの温度をいつもより高くしなければ葉の開きが悪くなる。それに、大抵のレシピ、有名な喫茶店でも茶葉を残したままにするけど、特にストレートで飲む場合、抽出が終わった茶葉からはどんどん渋みが出てくる。紅茶の渋みは、音楽のノイズと同じで、完全にゼロだと全体がスカスカになって味気ないけど、サウンドの邪魔をするようでは失敗だ。純粋に紅茶の香りを楽しむのであれば、渋みは全く感じない程度に抑えないと全てエグみとなる、と僕は思う。」
「・・・・はい。」
部長の言葉によどみはない。ゆるぎない自信と、それを支える、強い何か。
「レシピは大事。その上で、君は君の舌をもっと信じないといけないね。」
だからこそ、それは浮ついていたあたしの心を容赦なく切り刻んでいく。そうだ。今までもそうだった。部長のいれた紅茶は、クッキーに、合っていたんじゃない。部長が、合わせていたんだ。だからこそ、いれる前に、クッキーの味を確認しておく必要があったんだ。
あたしは何をしていたんだろう。あたしは何を目指していたんだろう。誰かが書いたレシピの通りに作るだけなら、あたしはただのお菓子作りロボット。きっと、普通の味がする、普通のお菓子を作りつづけて、失敗はあまり無くて、でも、そこには、わくわくもどきどきも、無くて。自分がどんなにのぼせ上がっていたのかを思い知らされて、涙が出そうになる。でも、今は決して泣かない。絶対に負けない。ここで泣いたら、部長じゃなくて、あたしは自分に負けた事になる。そんな気がする。
「このクッキーはとても甘味が強い。本当はくちすすぎに白湯でも問題ないくらいしっかりと味付けをしてあるんだ。だから、紅茶も、薄いのかなと思うくらいの方がかえってクッキーの味も損なわない。でも、それでも紅茶は紅茶としていれてなければいけないけど。」
あたしは全力で部長の言葉に耳を傾けていたから。一言一句逃すまいと、全神経を部長に対して集中していたから。だから、急に部長の口調にためらいが混ざった事に気がついてしまった。
「・・・・まぁ、それだけこのクッキーが上出来だって事なんだけど・・・・これをここまで見事に焼き上げるのは、誰にでも出来るってものじゃない。ただのクッキーだと思って焼いたら間違いなく黒焦げになるけど、だからと言って焦げるのを恐れて弱腰な焼成をしたんじゃべたべたになって風味が全部損なわれてしまう。」
そうだ。部長には内緒にしているが、実はこのクッキー、何度も何度もの焼成に失敗している。死に物狂いの試行錯誤で、やっとこの焼き加減に辿り着いたのだ。昨日は、レシピ通りでダメだったから、自分の舌で、自分の感覚で、なんとかするって事が、昨日はちゃんとできていたのに。今日は、目に見える失敗が無かった。お客様に紅茶の雑味を指摘される事も無かった。そんな事が無くても、一流のパティシエなら気づかないといけなかった。浮かれて、のぼせ上がって、何も気がつかなかった自分が恥ずかしくて悔しい。そして、今部長にクッキーを褒めて貰えた事が恥ずかしくて嬉しい。そんなあたしの思考を遮るように、小夜さんが呟く。
「・・・・今日の陽は随分とおしゃべりね。」
「え?」
「ううん、なんでもない。・・・・なんでもないって事も無いわね。この人の事となるとほんっとに一生懸命なんだなぁって。」
小夜さんは傍目にもわかるくらい、ムクれたような、拗ねたような、不機嫌そうな顔をしている。
「あなたって誰にも興味が無いのかと思ってたわ。」
「どうしたんだよ。小夜。」
「いいえ、なんでも・・・・そうね、本当になんでもなかったわ。じゃあ、私はそろそろおいとまするわね。小田原さん、ご馳走様。あなたのクッキー、本当に美味しかったわ。」
「え? ・・・・あ・・・・ありがとうございます。」
「小夜。送っていくよ。」
「結構よ。」
呆気に取られるあたしと部長をよそに、小夜さんは静かに立ち上がり出口へと消えていった。
きっと部長は気づいていない。でも、あたしはそうじゃない。いや、多分、他の誰だって気づく。・・・・小夜さんは、部長の事が好きなんだ。そして、小夜さんの気持ちと同時に、あたしはあたしの気持ちにも気づいてしまった。あたしも、部長にひかれてる。不思議で、不可解で、気まぐれで、ひょうひょうとして・・・・優しくて、太陽のように暖かい、この人に。
冬休みに入ってすぐ、あたしは駅前の喫茶店で人と会っていた。お相手は小夜さんだ。突然の呼び出しに断る事もできず、緊張と不安に包まれながらあたしは待ち合わせの場所に来た。小夜さんは、かなり前から待ってきたように見える。
「突然ごめんなさいね。どうしてもあなたとお話がしたかったの。」
「い、いいええ、その、こちらこそ。」
何がこちらこそなのか分からないが、本物のお嬢様を目の前にしてあたしは子供のように落ち着きがない。
小夜さんもじっと黙ったまま何も言おうとしない。しばらくあたしたちは無言で紅茶を飲んでいた。やがて、小夜さんがぽつりとつぶやく。
「陽は・・・・あなたの事が好きなんでしょうね。」
やはり、話は部長の事だった。小夜さんは部長があたしを好きだって言うけれど、あたしには分からない。部長は、誰にでも優しいから、と、否定しようとして・・・・寂しそうに笑う小夜さんに、あたしは何も言えなかった。
「・・・・陽は、中学校に入った頃から、鋼鉄の壁を心に張り巡らせていったわ。それは、私に対してもそうだった。いつも穏やかに笑っているけれども、誰にも、決して誰にも自分の心に触れさせまいとしていた。それが、あなたと居る時だけは違う。陽は、あなたにだけは思ってる事をそのまま言う。場の流れをこう持っていこうという思惑からの発言じゃなく、自分の思いを、あなたにだけはぶつけるの。」
「小夜さん・・・・あたしには、それはよく分かりません。部長は、知り合った時からずっと部長で、共通の知り合いも居ませんし、他の人に普段どんな態度を取るのかも、それがあたしへのものと何がどのくらい違うのかも、よく分からないです。」
「そう・・・・そうね。私は産まれた時からずっとあの人を見てきたから。陽と私は、同じ日に同じ病院で産まれたの。私はそれを勝手に運命だなんて思ってた。ずっと、ずっと陽と一緒に居られるものだと、陽の横に居るのは私なんだと、そう思ってたの。だから、陽がまわりの全てを拒絶するようになった時、寂しくて、悲しくて、毎日のように泣いていたわ。」
小夜さんは、本当に部長の事が好きなんだなぁ。あたしも多分部長の事、好きだけど、ここまで誰かを想うって、ここまで誰かに想われるって、どんな感じなんだろう。切なくって、狂おしくて、その人以外、何も見えなくなるって、人はそう言うけれど。今の小夜さんもそうなのかな。そうなんだろうな。あたしもいつかそうなるのかな。
「私ね・・・・高校を卒業したらすぐにイギリスに留学するの。その前に、陽の心を奪っておきたかった。せめて、心を開いてもらいたかった。でも、もう無理ね。もう遅いもの。」
「小夜さん・・・・。」
悲しい。小夜さんのような素敵な人が、悲しむのは悲しい。遠く離れ離れになっているのは、とても悲しい。もし本当に部長が小夜さんに対してまでも壁を作っているというのなら、それは本当に悲しい。
「小夜さん!」
「は、はい。」
突然の大声に少し面食らった表情の小夜さん。あたしはかまわず続ける。
「部長に、アタックしましょうよ! 遅くだなんて、絶対に無いです!」
「は、はぁ・・・・。」
唐突なあたしの提案に戸惑っていたものの、さすがはお嬢様、すぐに落ち着きを取り戻し、でも、返ってきた言葉は意外なものだった。
「小田原さん、私はね、もう良いの。もう遅いって言ったのはね、もう時間が残ってないって事じゃなくて、もう、彼はあなたと出会ってしまったって事。彼は、私以外にも、誰にも心を開かないって、きっと私はそれに安心しきって、行動する事に怯えていたの。そこにあなたが颯爽と現れて・・・・鮮やかに、彼の心をかっさらっていってしまった。私は、何もしなくて、何もできなくて。私は、あなたになりたかった。悔しいけれど、女の私から見ても、あなたは素敵。あなたは、私に無いものばかり持ってるわ。」
「え? えええ!? あたしがですか!? そんな事ありませんよ! 小夜さんの方が、上品で、おしとやかで、綺麗で、可憐で、頭良くって。あた、あたしの方が小夜さんみたいになりたいくらいですよ。あたしなんか、ガサツで、大食いで、おっちょこちょいで、バカで、ええと、ええと。」
素敵なんて生まれて初めて言われた。焦って訳分からない事を喋り続けるあたしを、小夜さんはくすくす笑いながら見ていた。
「やっぱり小田原さんは可愛いわ。ね、これからはミキちゃんって呼んで良い?」
「か、可愛いだなんて、そんな。は、はい、ミキちゃんでお願いします!」
「ふふふ、そうね・・・・ほんっとうに悔しいけれど、陽があなたをなぜ好きになったのか、よく分かったわ。あなたが、ミキちゃんで良かった。これからも私と仲良くしてね。ミキちゃん。」
「は、はい! 光栄です! よろしくお願いします!」
三学期が始まり、ある日、部長は突然引退宣言をした。
「そろそろ、部長の座を君に渡したいと思う。」
「え? あたしにですか?」
「この同好会は僕と君しか居ないだろう。他の部はもう夏には部長が交代している。僕だって後三ヶ月もしないうちに卒業だし、いつまでも部長で居られる訳でもない。今の僕は生徒会長でも無いしね。スウィーツ同好会が発足して今日で丁度一年だから、区切りにはなるんじゃないかと思ってね。」
そう、スウィーツ同好会は、部長とあたしの二人しか居ない。部長が居なくなれば、あたしは一人になってしまう。三ヶ月、あと三ヶ月したら、部長はもうこの学園には居ない。その事実を改めて突きつけられ、ふいに、あたしの目からは涙が零れ落ちていた。
「お、小田原さん!?」
どうしたんだろう、あたし、涙が、涙が止まらない。あたしはなんで泣いているの? 部長、部長が・・・・好き。あたしは、部長が好き。でも、いつまでも一緒には居られない。居てもらえない。どんなに望んでも、部長が卒業したらもう会うことはできない。それに、部長は小夜さんと一緒に居る方が、お似合いだし、幸せになる。あたしなんかじゃ、絶対に釣り合わない。
「あの、小田原さん、泣かないで。部長じゃなくなっても、卒業するまではここにも顔を出すから。」
「そうじゃないんです! そんなんじゃないんです!」
「後、あの、君には部長職を渡すだけじゃなくて、もう一つお願いっていうか、なって欲しいものがあるんだけど。」
「っ! ダメです!」
怖い。部長は何か怖い事を言おうとしている。いきおい、あたしは酷く怯えてしまう。部長、言わないで。
「僕は、小田原さんの事が好きだ。だから、僕の恋人になって欲しい。」
「だから! だからそれはダメなんです!」
「うぬぼれだけど、僕は君が僕を好きでいてくれてると思ってたけどな。」
「あたしの・・・・あたしの気持ちなんて全然分かってないくせに!」
「そうだね。分からない。分からないから、教えて欲しい。言葉で伝えて欲しい。これって、そんなにわがままな事かな? 好きな人の気持ちを知りたいって思う事は、そんなにいけない事かな?」
部長は、部長は周りの目を気にしない。だから、素直で正直。あたしは人の目が気になる普通の人だから、素直じゃなくて、正直が恥ずかしくて・・・・。
「小夜さんは、部長の事が好きなんです! 部長には小夜さんの方がお似合いなんです! あたしなんて、あたしなんて一緒に居ても恥ずかしいでしょう!?」
部長は、少しだけ悲しそうで、寂しそうな顔をする。
「・・・・小夜は、確かに僕の事を好いてくれるけど、僕は小夜の気持ちに応える事はできない。」
「部長・・・・。」
冬休みのあの日、小夜さんに言われて気づいた。部長は、女性の気持ちに気づかないんじゃない。誰よりも敏感に感じ取って、さらりとかわす。普通の女性だったら、鈍感な朴念仁だと思わせるように。上手に、自然に。告白さえもさせないよう、会話を、雰囲気を巧みに操作する。そして、その実、自分の心は絶対に他人に見せない。氷のように冷たく、ダイヤモンドよりも硬い、鋼鉄の仮面。人の目を気にしないように見えて、奇人変人のように自分を見せて、そのシナリオは、その舞台は、全て部長の掌の上。あたしはバカだから、気づく事ができなかった。やっぱり小夜さんて凄いな。
「だって、僕は君の事が好きだから。」
もうだめ、もう、私の心は立っていられない。これ以上、部長の気持ちを拒み続ける事ができない。小夜さん・・・・ごめんなさい。あたしは、勝手に裏切ったような気持ちになる。本当に勝手だ。ごめんなさい・・・・あたしはやっぱり部長が好きです。この人は、いつもあたしに一生懸命で、暖かくて、優しくて、あたしのおごりをいさめて、たしなめて、そしてまた優しくて、あたしをいつも導いてくれる。そんなバカなあたしを、先輩の腕が優しく包み込んでくる。暖かい。
「部長・・・・部長・・・・好きです。」
「ミキって、呼んで良いかい?」
「は、はい、ミキでお願いします。」
「僕の、恋人に、なってください。」
「・・・・はい・・・・光栄です・・・・よろしくお願いします。」
「経済学部経営学科?」
「そうだよ。・・・・何か不満そうな顔をしているね?」
「いや、不満は何も無いですけど、意外だなぁって。部長もパティシエになるものだと。」
今のスウィーツ同好会の部長はあたし。それでも、二人しか居ないから、あたしは部長を部長と呼んでいた。部長は、陽って呼んで欲しいって言うんだけど、本当にそう呼べるのはもうちょっと先かな。二人でどこか出かける時に、思い切って陽と呼んであげると凄く嬉しそうな顔をする。可愛い。
「僕が経営学を学ぶのは・・・・ミキがバカだから、かな。」
「なぁっ!? なんですってぇ!?」
どうしてこの人は自分の彼女にそんな失礼な事が言えるのだろう。瞬間、爆発しようとしたあたしの怒りは、・・・・少し照れたように目をそらす部長の顔を見て急速にしぼんで消えてしまった。
「ほら、その、どんなに美味しいお菓子を作る人でも、イコールその人のお店が安泰って訳ではないだろう? 味の追求しか見えなくて、採算も他の何もかもをおろそかにして、結局潰れていったお店も僕はたくさん見てきた。だから、ミキが将来作るお店の経営は、僕がやってあげる。ほら、ミキっておつりの計算もできなさそうだし。」
「引き算くらいできます! で、でも、部長、あの、それって。」
「いつかミキと二人でお店を出来たらなぁ、なんて思ってるんだけど、ミキはイヤなのかな?」
「い、イヤじゃない! 全然、全然イヤじゃない! 約束! 約束だよ!? もう取り消しなんて絶対にさせないからね!?」
あたしは小田原未来。未来って書いて、ミキで、ミライ。この人となら、太陽という名の、太陽のようなこの人と一緒なら、明日も、明後日も、その次の日も・・・・二人の未来は、きっと、ずっと、素敵に輝き続ける。
「まぁ、僕だって一切お菓子を作らないって事も無いだろうから、それなりの資格や認定は持っておくつもり。調理師、製菓衛生師は持ってるけど、後他に一応栄養士、食品衛生管理者くらいは持っておこうと思う。ミキにも、製菓衛生師は最低でも持って貰うから、調理師専門学校にでも通うかどこからのお店で調理のお仕事なんかをしてもらわないといけないかな。やる事はいっぱいあるから、頑張ってね。僕も協力するよ。」
素敵に・・・・輝き続ける・・・・と思う・・・・きっと・・・・。とりあえず、もうちょっと数学を頑張ってみようかな。
~完~